この記事では、僕の生い立ちについてとどうしてネットビジネスをするようになったのかについて、お話しします。
どうして、安定を捨ててまで、ネットビジネスで稼ぐことを目指したか。
その経緯もお伝えしたいと思います。
法律的な身分や充実した福利厚生、そして安定した給与保証もありました。
どうしてそれを自ら辞めて、ネットビジネスで生計を立てるビジネスオーナーになろうと思ったか。
このことを話すには、まず僕の生い立ちから話させてください。
1977年、埼玉県のとある田舎町に僕は生まれました。
長男ということで、期待を持って生まれてきたようで、
家は代々教員の家系。
おじいちゃんも、元校長先生でした。地域じゃ有名な人だったようです。
おじさんにも中学校の先生がおり、父親は教員免許を持っていました。サラリーマンでしたが。
そんな堅い家系に生まれて、僕は子どもの頃は厳しくしつけられていたように思います。
食事中はもちろん、普段から騒ぐことは望ましくない・・・。
騒ぐと「騒ぐな、大人しくしろ!」と厳格なおじいちゃんからゲンコツを喰らった思い出は多々あります。
だから、幼き頃の僕は、食事中は特に、そして普段もあまり騒いではいけないんだと思うようになりました。
でも、子どもは普通、騒いだりやんちゃしたりしたいもの。
友だちと遊ぶときは、外で目一杯遊びました。
でも、家の中に帰ると、親やおじいちゃんの目を気にして、大人しく振舞うように、いわば演技する。
そんなちょっと屈折した感じはありました。
また、勉強は、九九掛け算とかは学校に入るちょっと前におじいちゃんから仕込まれて、早めにできるようになって、学校では楽でしたが
その一方で、勉強を押し付けられることにも窮屈さを感じてもいました。
小学生の低学年くらいから親の勧めというか、自分はサッカーをやりたかったのですが、親に言われて剣道を習い始めました。
これがまた堅物の代名詞のような競技というか、武道で、
礼に始まり礼に終わるのはいいんですけど、とにかく年長者が人間として上。
といういわば日本の年功序列制度を体現している、というか、その根源の思想なんじゃないかと思われるほどに、上が絶対、という世界でした。
当然、その思想を浴びて、いわば洗脳されます。
家、学校、剣道、どこに行っても上が絶対。
こういう逃げ道のない状況の中で、「どうせ、年上の言いなりが人生なんだ」
と半ば諦めかけている自分もいました。
で同時に、だからこそ、
「絶対にこんなのは嫌だ。必ず抜け出してやる!」
という野心も内に秘めた子どもでした。
そして中学生になり、流れで剣道部に入りました。
3年生の時は部長になり、
付近の高校からも「授業料は免除するからうちに来てほしい」
といわれる程度には、上達しました。
(でも、高校は行きたい共学に行ったんですけどね。)
中学の勉強は1年生のときは、からきしダメで、2・3年生で少し挽回しました。
生活面では、ガリ勉的要素があったためか、友だちにシカトされたこともあります。
そんなつまらない生活を覆し、シカトした奴らを見返そうと、高校時代は思う存分楽しむことにしました。
そして、舐められたら終わりだし、みんな人間は自分の都合優先なんだ、と気付いたので、強気でいくようにしました。
そしたら、高校の仲間からは、一目置かれるようになり、特にワルっていうわけではないのですが、存在感はありました。
バンドや文化祭の実行委員をやり、青春しましたね。
彼女も3年生の時にできて、毎日一緒に帰りました。
楽しかったです。
しかし、それもつかの間。
高校時代は勉強を全くしていなかったので、受けた大学は5つ位でしたが、全て落っこちました。
一応、進学校だったので、受験して大学に行くのが当たり前だったんです。
多くの生徒が、将来は安定した大企業に勤めたい、とか公認会計士になりたい、とかそういう学歴を重視した就職を目指していたので、勉強している人は多かったようです。
でも、自分は将来、なりたい職業なんてない、親は「教員になれ」とか
「教員免許だけは持っていて損はないぞ、取っておけ」という考え方の持ち主だったので、
大学に行くことは当たり前のようになっていたのですが、ここで最初の挫折をしたわけです。
なりたい職業はないし、学歴で仕事を決めるという考え方になじめなかった僕は、
したがって勉強もしなかったし、かといってすぐ就職するという目標の業界などもあるわけではなかったのです。
だから、一年浪人を許され、大学受験を再度行うこととしました。
大学時代に好きなことでも見つけて、その道に進もう、と考えていました。
でも、それって、今の僕から見たらですけど、目標が明確でないから永遠に達成できないぞ、って言ってあげたいですね、まさに。
1年後、私立文系の大学の経済学部を受験し、合格。晴れて入学しましたが、実は希望していた大学ではなかったです。
そのため、気が乗らず、サークルに入る気もなかった。
サークル勧誘の嵐の中をくぐり抜けて、スルーしたことを後悔しても遅い。
サークルに入らないと、お昼などは一緒に食べる人もなく、必然的に一人になります。
ここまで想像していなかった自分。
単位は出席重視ではない取りやすい科目を選びましたが、次第に大学に行くのも億劫になり、
サボりがちになりました。
そして2年生へ上がる時の必要単位が2単位足りず進級できず。
4年生の時卒業に必要な単位が、2単位足りず卒業できませんでした。
やはり、物事は動機が大事だと再認識した反面教師的出来事だと今は思います。
やっと卒業したものの、就活はしたくなかったので、ちょっとだけした程度です。
それでも、説明会に行くと、
面接を受けてみないかと声をかけてくれる人事担当者もいました。
でも、その会社でどうして働かなければならないか、という理由が自分にはなく、
ましてや企業というのは、社長がトップで、社長や幹部のいいなりがしばらくは基本です。
そう思い、あの年功序列への嫌悪感がここで出てきて、
どうしてその社長を楽させるために俺が就職して働かなきゃならないのか、と根本的に思っていました。
だから、就職はしませんでした。
そうして、何もしばらくしなかったのですが、
そんな無駄な時間も間が持たず、仕方なく近所で時給制のバイトをしました。
そうすると、よく同じくらいの年齢の人がスーツを着てキリッとして会社などに向かう姿も目にします。
やがて「自分も就職した方がよかったのではないか・・・」
という不安や自己嫌悪も生まれてきました。
そしてある日、家で弟の部屋に入った時目にしたものがありました。
それは地方公務員試験講座、という名前の本でした。
手に取ってみると、公務員試験対策の通信講座の教材の本でした。
パラパラとめくってみると、
「ゲ! 小難しいことがいっぱい書いてある!」
って思いました。
公務員になる奴はこんなの覚えるんか、そう思い眺めていると、
講座生を励ますためのものか、公務員の福利厚生はこんなにいい、
ということや
合格体験記のようなものもあり、
「おかげで合格しました」ということが、あたかも人生の成功のように書かれていました。
その時の僕は、いわば社会の底辺でしたので、
「公務員になると、こんな感じなのか」
と多少嫉妬のようなものや、そして成功したいという意欲も出てきました。
そして、「この本を覚えれば、公務員になれるのか」
と思いました。
それから行動を始めました。
その弟の本を勝手に勉強に使い始めたのです。
弟は実は、もう既に就職していて、先を越されていたのですが、
公務員は諦めたのでした。
そこでその本は自分のものに勝手にしたのです。
近所でのバイトをやりつつ、空いてる時間や休みの日に解説付きのその参考書兼問題集に取り組みました。
最初は用語もよくわからなかったのですが、6年通ったとはいえ、大学の勉強は独学派でしたので、独学は苦ではなかったのが幸いしました。
1か月、2か月と読み続け、一通り読むことを何回か繰り返しました。
半年後、地元の市役所の試験を受験に行きました。
分かった問題もあれば分からなかった問題もあったのが印象でした。
そして合格発表の時期、1通の封書が自宅に届きました。
「内定したのでお知らせします」
という通知でした。
合格できたのです。
親や親せきも喜びました。
でも一番喜んだのは自分です。
これで一人前になれる。
将来の安泰が手に入る。
誰にも恥ずかしくない人生が送れる。
それからはウキウキでしたね。
入庁の半年後まで、今までにない位、リラックスしました。
ゆっくり過ごせました。
そして4月の入庁日、晴れて辞令を受けて、市役所職員となりました。
公務員の身分となったのです。
市役所の会議室で説明や研修を受け、初日の研修が終わり、いよいよ配属先に向かいます。
自分は花形部署の税部門の課に配属になりました。
そして事務室に入り、挨拶をすると
上司と思しき人が
「こっちを向かない!」
挨拶してるのに、こっちを向かないのです。
忙しいということなのかもしれない、と思い、そこは気を取り直して、もう一度挨拶しました。
「失礼します。本日配属になりました。よろしくお願いします!」
・・・やはりこちらを向かない。
いえ、全員ではありません。1人だけがこちらを向かないのです。
そして、僕は席に案内されました。
その案内された先は、こちらを向かない人がいる席の隣でした。
そう、その人が僕の上司になる人だったのです。
そこから、大変な日々が始まりました。
結論から言うと、その人はそれほどダメな人なのではなく、むしろ優秀な人でした。きちんと教えてくれたし、助けてもくれました。
しかし、最初は僕に何か抵抗があったらしく、顔を合わせてくれなかったのです。
後から知ったのですが、新規採用者の履歴書を配属先の課の上司が回覧する、ということがあって、そこであまりいい印象を持たなかったのだと思います。
ま、色々ありましたからね。
課の仕事は最初から土日出勤でした。市役所のイメージが壊れましたね。
そして税金の計算作業の時期でしたので、残業は毎日9時10時。
5時で帰れるのが役所、という常識は破壊されました。
そこの課は2年いました。市民を怒らせてしまって、上司に怒られたり、まあそれは市役所の若手職員あるあるなんですけど、それでも僕は人を怒らせてしまったことが多かった。
次に配属になったのが、道路部門の課です。
そこではいじめにあいました。
自分が熱心に仕事をしなかったのが原因だと、後には分かったのですが、熱心にしたくなかったというよりも、やり方が分からなかったんです。
言い訳にしか聞こえないかもしれないけど、道路関連の仕事は全く分からなくて、先輩もスパルタ式だったし、そこで出会った上司が奇しくも剣道経験者が複数いたので、やはりここでも年功序列と上司絶対へのアレルギー反応がでてしまったのも一因だと思います。
教えてくれなかった。そして自分の入った翌年にその課に入ってきた後輩も剣道の経験者で、しかも、やたら強い。
先輩にも一度で気に入られ、鳴り物入りで入ってきた男でした。
その後輩をAとすれば、
「Aは教えないけどできるけど、お前は仕事ができないな」
などといった趣旨のことを言われ、
つらくて休みがちになりました。
するともっと当たりの強さはエスカレートします。
休んでるんじゃねえ、ってな感じです。
後輩のAにもナメられて、
席次もAを上の席に、自分を下の席に上司にデスク配置を替えさせられました。
自分で席の移動もしました。屈辱でした。
その課に6年いて、その後願い出て、好きな歴史関係に携われる文化財の課に異動できました。
ここでは、得意を発揮して、9年間も勤務し、自分なりに充実した仕事をすることができました。役職試験にも合格できたのもこの時期です。
そんな中でしたが、今までの流れの中で、役所というものの古さというか、
この市役所の体質というものが身に染みて分かっていたので、
「そのうち独立してやる」
という気持ちは常に持っていました。
馬鹿なことに、その時は親の了承を得ないといけないと思い込んでいて、
親も「家族なんだから」という考え方だったのもあり、
何度も役所を辞めることについて相談しました。
でも、そのたびに、
父親:「辞めてどうすんだ!!」
僕:「独立してやってくんだ!!」
父親:「独立なんてできるわけないだろ!!食っていけるわけがない!!お前は病気なんだ!!」
僕:「・・・」
という形で1年に1回を3年くらい「相談」をかけましたが、
いずれも抑え込まれ、ねじ伏せられてきました。
~自分の人生なのに、なんで俺が折れなきゃいけないんだ~
毎日毎日、通勤中も、家に帰っても、時には仕事中もそう考えていました。
どう考えてもおかしい。
俺の人生の選択を俺が自由にするというだけなのに、親は俺を手元に置いておきたいから、と近所への手前、世間体の手前、俺を市役所から辞めさせたくない、明らかにそれが理由でした。
しかし、それでは、僕の意志や気持ちというのは、優先されないまま。
優先しようと親がしているのは親の理屈です。公務員が一番安定してるんだ、という信条が理由とということとして言っていますが、要は親の都合、親の体面を優先したい、そのために、俺の意志は尊重しない、そういうことでしかありません。
では、優先すべきなのは親の意志なのでしょうか。
いえ、今でも思いますが、優先すべきは、こと自分の人生に関してのことなら、
断固!!自分の意志を最優先、最尊重すべきです!
これは皆さんにも言えることなので、声を大にしていいたいです。
ここのところが年功序列の日本では、大事にされない。
子どもや若者世代も泣き寝入りしている!
少なくとも、自分はそう思います。
だから、断固として好きなことで独立する!
実行して見せる!
そういう気持ちが高まっていたのです。
そうして、今のビジネスの師匠のメールが届いたとき、
講座の案内があったのです!
そこには自信を持って成果にコミットする姿勢が見られました。
信用してみるか!
そして、申し込みのクリックをしたのです。
それが令和3年6月頭のことでした。
実はその1年前から、他の人から少しビジネスを学ぶことをかじっていたことがありました。
その基礎はあったのですが、その人では、成果にコミットするものではなく、当時の自分には満足できるものではなかったのです。
そうして試行錯誤して出会ったのが、今の師匠です。
結果にコミットする姿勢が今の師匠のあり方です。
これからも、僕は仲間と楽しみながらビジネスをしていきます。
未来は自分の手で切り開くという意味が本当の意味で最近やっと分かりかけてきました。
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